ゆらぎの詩歌日記

好きな詩や歌、俳句などについて語ります

龍太の俳話

 ”わが山河まだ見尽くさず花辛夷”(相馬遷子)ー飯田龍太全集第七巻より

 飯田龍太全集(全十巻)をかたはしから読んでいる。龍太の句は端正すぎるところがあり、私にとって必ずしもぴたりとはまるものではない。しかしその随筆や俳論・俳話には心惹かれるところが多いのである。

 その全集第七巻に「俳句は石垣のようなもの」という文があり、そのなかで龍太はある句会での「俳句がうまくなるにはどうすればいいでしょうか」という質問への答えを書いている。

 ”そのひとつ。一年間、つまり三百六十五日、毎日一句、日記でもいい、家計簿のすみでもいいから書つけなさい。三百六十五句目には、かならずあなた自身の俳句がうまれているはずです。けれども、これには大事な条件がある。健康、不健康はもとより、忙閑晴雨にかかわらず、毎日一句はかならずつくること、そして書き記すのは一句だけでいい。いい気分で、十句二十句生まれた場合でも、書き残すのは一句だけだ。

 -(黛まどかも言っているように毎日句を詠まずに、何日も放っておくと、再開するのに大変なエネルギーを要する。そのこともあわせて指摘しているように思う。


 その二。いついかなる季節でも、自分の好きな先人の秀句を一句だけ記憶していること。これにもまた条件がある。その秀句は、過ぎ去った季節の作品ではなく、これからやってくる目前の季をとらえた作品であること、たとえばいま、一月の終わりとすると、二月の作品を、二月なら三月のころの、それも自分の身辺に実感できる卑近な対象をとらえた句がいい。

 -”二滴一滴そして一滴新茶かな”(鷹羽狩行)


 最後にもうひとつ。多分これから、あなたたちも、句会とか吟行会とか、いろいろ旅をされる機会があるだろうと思うが、そんな折にはいたずらに美しい風景ばかりに目を向けず、そこに生涯住みつくことなったらどうだろうか、と考えてみることだ。つまり他郷を故郷のごとく、逆にまた故郷にあっては、時に他郷のおもいをこめて四時見慣れた風景を改めて見直してみることである”

 龍太が繰り返し言っているように、じつは一番厄介なのはなんといっても第一の条件である。

 ”一年間、雨の日も風の日も、かならず一句作りつづけるというのは、なかなかの根気がいる。さらに十句、二十句のなかから、だれにも相談せず、一句だけ選びだすというのは、余程の思い切りがないとできないことである。”

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 以上おのれへの戒めとして書いてみました。(以前の記事を再掲しました)